目覚めるまで、2人には傘なんて必要なかった。雨は僕達の様子を窺っていた。面倒くさがりな雨のおかげで、僕達は濡れる心配がなかった。地面が濡れ、黒い木々が騒つく度に大きくて丸い水が落ちていく。でも、ハッキリとはそれが見えない。もう辺りは暗くなっていた。木の影が時折、誤魔化されてしまう程の暗さだった。僕はそこを森じゃないだろうかと話した。彼女はそこを山だと言った。僕達は、どちらかが悲しくならない様に、その場所をその間ということにした。
歩き初めて間もなく、僕は初めて雨がピアノの音と重なって落ちる事もあるのだと知った。美しかった。真っ暗闇で何も見えていないのだけど。雨が先なのか、音が先なのか少し気になって彼女の顔を覗いた。「そんなことも知らないのね」と言われそうで、彼女には話さなかった。
僕等は話しながら、暗い道を歩き続けた。彼女は全くその道の先を気にしていなかった。だから、森と山の間について何一つ話さなかった。僕はその間の行く末が気掛かりだったけれど、そんなことは口にすると面倒なので、いつもよりほんの少しだけ早く歩いた。きっと同じ場所に戻るのだと、僕は思っていた。腕時計の縁を歩き続けて、また2と3の間へ辿り着くのを想像した。
「まあ散歩をしているようなものだね」
「そうね。きっと大きな道に出るでしょうけどね。どうでもいいような道に出る。私はこんな道がずっと続いているような場所が好きだけど、そんなところはないからね」
「そうだね。こんなに暗い道はずっとは続かないだろうし、そろそろ人の姿も見えるはずだ。僕等だけってこともないだろうから」
「先に言っておくけどね」
「うん」
「あなたに今まで貢献してきた事を誰かと比べてみても、私が一番なわけじゃない?どう考えても」
「ええ。まあそうですね」
「だからね、あなたが私を選ばないことなんて有り得ないと思うのよね。あなたへの貢献度を考えてみても、やっぱりそうなっちゃうのよね。もうあなたが選ぶどうこうの話じゃないわね。こんなの。こんなに時間をかけて」
彼女の言う事に面食らって、僕は笑った。ありったけの記憶は、嬉しくて仕方がなくなる。でも、彼女の言う通りだ。あまりにも時間がかかり過ぎていた。その事には気付かされてしまう。
「そうだね。だいぶかかっているね」と僕は言った。でも、彼女の言葉に惹かれてしまうのは、雨が落とすピアノの音の仕業じゃないかと思った。でも記憶は、待ってくれなかった。
『その人を好きになれるかどうかは何で決まるのか』と彼女に訊いたことがある。僕はそんなことを思い出していた。
だから、僕は彼女の手を繋いだ。
僕等は手を繋いだまま歩き続けた。しばらくすると真っ暗な道は、どうでも良い道になっていく。僕は彼女と話をしながら、その道にバス停があるのを知った。そのバスを待つ人達が傘を持って、その多くが足下を眺めていた。実のところ彼等の体は、傘に支えられているのかもしれないと、僕は思った。でも、彼らがそこでバスを待つ理由にはあまり関心がなかったし、彼等と傘の関係も直ぐに考えるのをやめてしまった。それに僕は繋いだ手の握り方がそれで間違っていないのか、ずっと考えていて、それにばかり気を取られていた。最後まで、それを変えることはなかったのだけど。
僕等はバス停を過ぎて、また森と山の間へ戻っていた。きっと腕時計の10の位置くらいじゃないかと思う。僕等の横をレザージャケットを着た2人の男が歩いている。僕らに話し掛けてきた時に、その2人はどこかで友人だったことに気づく。
僕等は他愛も無い話をする。僕は繋いだ手の事ばかり考えている。話し終えて、僕は彼等がどこかへ行くのを少しの間眺める。「僕等にはあまり関係のない話だったね」と僕は言う。まだ僕は彼等の後ろ姿を眺めている。彼女もそれを見ている。彼女の口元は、きっと微笑んでいる。
雨が落とすピアノの音は、大きくなっていった。それは、あまりにも美しかった。真っ暗闇で、目に見えなくても、それが美しいものだとわかるほどに。そろそろ、その事を伝えても良いじゃないかと僕は思う。それは僕が、きっと微笑んでいる彼女の方を振り向くまでの束の間だった。
目覚めると、僕は少し切なくなった。それはまだ続いているかのように思えたから。気を取り直して、僕は時間を確認する。ここは、9の少し手前だった。
「久々にやってくれたね」と、仕方がないので、僕は音楽に話しかける。ここに連れ帰ったのは、ピアノの音だけだった。
