僕とその女性は、言葉を交わす。彼女の傘が、僕の足元へ3度も落下したから。彼女は3度の内、何度も僕に謝る。「大丈夫ですよ」と僕は言う。彼女は、きっと目の前の表現者の時間をしばしば止めた事に謝罪していたのではないかと、僕は勘違いすることにした。
彼は話すのをやめてしまい、それから階段を上り3階へ向かった。珈琲を手にした女性の側では、表現者は注意を払い続ける。きっとそれが億劫になってしまったのかもしれない。
和歌山の強盗団襲撃事件について、詳細な記述不可。作りかけの曲に少しむっとしている。
「和歌山の強盗団襲撃事件の犯人には、小田原出身の芸能人はいない。その連中の仕業なの。本物が海外にいる間にね……」
僕はイヤホンのせいで、表現者がいることに気が付けなかった。表現者は同じ話を何度も繰り返していたのに。僕は作り始めた曲のサンプルを繰り返し聴き続ける時間に、まだ別れを告げていなかった。それには直ぐに気付くことができた。
僕が耳を傾け始めるより、ずっと早い始まりに、隣の女性がちらちらとこちらに目を向ける。僕はその理由について、話し掛けようか迷った。雨の日に煙草を吸う人間は、それがジタンやゴロワーズなら気掛かりになる。
その日の陽射しが、穴ぐらの蓋に差し掛かる頃、僕はもう目覚めかけていた。何かしたい事もなかったから、作りかけの曲に触れそうになったけれど、諦めてしまった。穴ぐらに陽射しが入らないうちは、銀色にわざわざ挨拶するなんて馬鹿らしい。そこは外よりも寒かった。だから、僕はもう一度向こうへ戻ることにした。寒さが、彼を再び引き寄せたことになる。
その日に彼と会ったことで、僕は2回、彼の話を聴いた事になる。彼に出会った頃は気にしていなかったが、彼は喫煙者だ。僕の近くで、煙草を吸う。銘柄はわからない。彼は手元に何かの人形を持っている。それも、はっきりとは見えなかった。いつもその人形を持っているのか、少しだけ気になった。彼はリュックサックを持っている。何が入っているのか訊くのは、もう少し目を合わせてからでも良い。彼は語り続けるのに忙しそうだから。
「あのね、例えばね、上役の人が、上司の上司の家に行って、色んな事を思い出さないようにって、精神薬を混ぜる犯罪者がいるんだよ。昔はね、悪いセールスマンと呼ばれる集団だよ、その犯人はって、そう言われていた。昔はね。昔はさ……」
電車の中で、男が急に席から立ち上がる。その車両には数人の乗客しかいなかった。男は二歩ほど左手へゆっくりと歩く。舌を丁寧に唇へ寄せながら、口元を湿らせている。喉が渇いているのかもしれない。「あのね」と彼は少し大きな声で言った。向かいに座って居る僕にではない。誰に向かってでもなかった。だから、その話はそこにいる全ての人達へ行き渡ることになる。
「ずっと昔にその表現者と出会った時」それは、僕にはできない話になってしまう。僕は今から最も近しい夏に、初めて表現者と出会ったのだから。まだいまいましい陽射しと野暮ったい空気が、井の頭線の車内でふらふらしているのにまいっている時で、お気に入りのコーヒフロートアイスが、穴ぐらの周りから姿を消すとは、これっぽっちも想像していなかったくらいの夏だ。
僕はこの話のずっと昔を巡ってみたいと考える。僕の知らない話を聴いてみたいと思うからだ。もしかしたら、どこかの時間で、その話は誰かが居なくなったりもせず、誰にも不幸が起きないのかもしれない。その男に幸せを表現していた頃があるなら。
